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金スマに出た中畑清の嫁は?清原と薬の関係?


横浜DeNAベイスターズの監督を2015年まで務めた中畑清さん。弱小チームの監督として奮闘したものの、残念ながらチームをBクラスから脱出させることはできませんでした。それでもチームの雰囲気が明るくなったのだけは確かなようであり、それだけでも大きな前進といえるかもしれません。

 

そんな中畑清さんですが、実は数年前に最愛の妻を亡くしています。いったい何があったのでしょうか?

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中畑清さんは1954年生まれの元プロ野球選手です。福島県西白河郡矢吹町出身、身長185cm、体重90Kg。同町の名誉町民第一号であり、1980年代の読売巨人軍を支えた名選手です。

 

高校時代は安積商業高校に所属しており、大学時代は東都大学リーグで首位打者争いをするなど活躍していました。1975年のドラフト3位で巨人に入団しますが、入団当初は王貞治を筆頭に有力な選手が数多く活躍していたため、入団から丸3年はほとんど出場機会がありませんでした。

 

それでも入団4年目の1979年出場機会が大幅に増え、規定打席には届かなかったものの打率.294、本塁打12本、45打点を記録し一軍に定着。翌1980年は打率.268にとどまったものの22本塁打を放ち、チームの主軸として迎え入れられました。その後も長きにわたり強力な読売巨人軍打線の中枢を担い、1984年には自身初となる30本塁打を記録します(打率.294、31本塁打)。

 

その後も1988年までは主軸の選手として申し分ない成績を上げていたものの、1989年は三塁に再コンバートされるものの、けがで長期離脱。その間に三塁は岡崎郁選手が、一塁にも駒田徳広選手が定着し、中畑選手は居場所を失います。と言っても当時はまだ35歳であり、実績を考えれば現役を続行してもおかしくないはずだったのですが、中畑選手はあっさり引退を表明。13年間のプロ野球人生に幕を閉じました。

 

その後は野球解説者や評論家を経て、1993年に読売巨人軍に打撃コーチとして就任。2004年のアテネオリンピックではヘッドコーチを務めます。さらに2010年には国政選挙に挑戦、立ち上がれ日本から参議院議員選挙に出馬するものの、惜しいところで落選。政界への道は早々に諦め、2011年12月に横浜DeNAベイスターズの監督に就任します。当時圧倒的に弱かったチームの再建に挑み、2015年は前半戦終了時点では首位に立ったものの、シーズン終了時には最下位に転落。不振の責任を取り、辞任しました。

 

現役時代は闘志あふれるプレーで鳴らしていましたが、その一方で細かいあらも多く守備は苦手でした。現役時代の半生からか、監督に就任後は守り勝つ野球を標榜していましたが、結局それが実を結ぶことはありませんでした。ムードメーカー的なイメージとは裏腹に、チームの輪を乱す選手に対しては冷遇するなどシビアな一面も持ち合わせていました。

 

そんな中畑清さんですが、私生活ではかなりの愛妻家として知られていました。嫁さんとの出会いは大学時代で、駒澤大学所属時には北海道拓殖銀行から内定をもらっていたため「一緒に北海道に行ってくれないか」とプロポーズしたとか。その後プロ入りして北海道行とはならなかったものの交際は続行し、現役1年目のオフに結婚します。

 

横浜Denaの監督就任時には嫁さんからの手紙が公開されるなどもしましたが、嫁さんは2012年のキャンプの時点でかなり体調を崩しており、秋季キャンプ中にもかかわらず看病のために帰郷したこともありました。その後も嫁さんは闘病生活を続けていたものの、2012年12月5日に子宮がんで死去。最後は眠るように息を引き取ったとのことです。

 

一部ではその苦しみから薬に嵌ってしまった、ともうわさされていますが……あくまで噂レベルなので何ともいえません。まあ、清原選手の例もあるので全くのガセとも断定しづらいのですが……ガセであることを祈ってます。



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